私を助けてくれたフォント、書体

皆さんは「書体」と「フォント」の違いをご存知でしょうか?書体とはある一定のデザインに従って作られた文字の集まり、フォントとは書体を表すための活字の集まりで、元来は活版印刷などにおける文字の金型を指した言葉です。

現代では文字はパソコンで扱われることが多いので、この二つの言葉は特に区別される事なく用いられることが多いと思います。パソコンの中にフォントが入っていて、それに沿ってパソコンの中に書体が表される訳ですから、専門職でもない限り確かに気にする程の違いではありません。そういうわけですので、ここでは書体とフォントの厳密な違いは気にせず、フォントという言葉に統一させて頂こうと思います。

では私を助けてくれたフォントのお話をさせて頂きたいと思います。私は趣味で高校の頃から小説を書いています。私は句読点の位置や段落の変え方などの細部を気にしてしまうタイプです。書き始めてもそうした細部が気になり、つい手を止めて考え込んでしまう事があります。そのせいで書くのが嫌になる事もあります。ワープロやパソコンが普及しておらず、手書きで直さなければならない時代であればより重大な欠点になったかもしれません。

そんな性格なので、当然フォントについてもこだわってしまいます。私は書き始めてすぐ自分が最高と思えるフォントを探しました。長い時間を掛けたのですが、これだと思えるものが見つかりません。そう思えるものが見つかっても、そのうち何か違うなと思い、また新たに探し始めてしまうのです。

そんな時、私の好きなある作家がインタビューで自分が普段用いているフォントについて語っている記事を見ました。私は憧れからその作家と同じフォントを使い始めました。「ヒラギノ明朝 ProN W3」というフォントです。まったく特別なフォントではありません。しかし、どうでしょう。そのフォント使い始めてから今までの神経質さが徐々に薄れていったのです。多少納得のいかない語句や句読点があっても、拘りすぎずに文章を書き勧められる様になりました。文章を書く上で見やすさや伝わりやすさは大事な事だと思います。しかし私は人に見せる事を意識するあまり、「これでは読みづらいのではないか」、「伝わらないのではないか」といつも怯えていた事に気付いたのです。こうした臆病さはあってよいものだと思います。

まった他者への配慮がなくなったらきっと文章も読みづらく伝わらないものとなってしまうでしょう。実際に他人と話をする場合と同じです。時には相手の顔色を伺う事も必要です。しかし私の様に神経質になりすぎると文章は進まなくなります。あれこれ相手の気持ちを勝手に想像してしまい喋れなくなってしまう様子を想像して頂ければ分かりやすいと思います。私はそのフォントを使う事でこうした事に気付けたのです。

またフォントをあれこれと取り替えていたのもそうした神経質さから来る息苦しさのためだったのです。もちろんこうした変化はこのフォントが持っていた力という訳ではなく、おそらくはその作家への私の憧れの気持ちが何らかの形で作用し、自身を客観的に見られる様になった結果だと思います。いずれにしても、私にとって「ヒラギノ明朝 ProN W3」は感慨深いフォントとなりました。今でも私はそのフォントを使い続けています。時に神経質になってしまって嫌になってしまう事もありますが、そんな時は深呼吸してそのフォントを眺めます。そうすると自然と力が抜け、文章を書き続けられるのです。